”私は民謡を一つ書いただけ”

祝婚歌」 吉野 弘

第10回授業で、巨大ナマコのようにヌルッとしていてつかみにくい、放っておけばどんどん肥大してゆき、生きてるんだか死んでるんだか分からない、海の生物なのに底に沈んだまま動かない(笑)、まったく得体の知れない(笑笑)著作権というものについてふれましたが、これからみなさんが「ものを作る」という立場から著作権について考えてゆく中で、ぜひ紹介しておきたい詩があります。
それは、吉野弘さんという山形県出身の詩人の書いた詩です。もともとは彼の姪御さんがお嫁にゆくときに贈ったまったくプライベートなものだったそうですが、その後詩集等にも収録されるようになったものです。わたしの大切な友人がお嫁にゆくときに彼女の披露宴で来賓の方が朗読されたのをきっかけに知りました。
(授業でもふれた「引用」と「転載」はちがうものだという点も意識しつつ、)ここに全文転載させていただきます。

二人が睦まじくいるためには
吉野 弘
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祝婚歌 」 吉野 弘
 
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
 
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
 
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
 
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
 
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
 
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
 
健康で 風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
 
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい

「伴侶」という言葉になかなか現実的な想像が追いつかないわたしでも、これを読むといろんな持続可能な未来が想像でき、あっっったかい気持ちになります。
さて、この素敵な詩と「巨大ナマコ」とどう関係があるのかという話しです。
授業で話した通りに考えれば、ここに全文を転載するのは許可をいただかないかぎりいくつかの側面から著作権法に抵触するおそれがありますが、この詩については、このように転載することも、例えば披露宴で朗読することも、問題ないそうです。なぜなら、作者の吉野弘さん自ら著作権フリーを公言されているからです。
以下は『人生の達人たちに学ぶ〜渡る世間の裏話』(早坂茂三東洋経済新報社 1997年)という本に収録されている早坂茂三氏と吉野弘さんとの対談の中の、「祝婚歌」の著作権に関する会話です。

早坂:吉野さんは「祝婚歌」を「民謡みたいなものだ」とおっしゃっているように聞いたんですけど、それはどういう意味ですか。
吉野:民謡というのは、作詞者とか、作曲者がわからなくとも、歌が面白ければ歌ってくれるわけです。だから、私の作者の名前がなくとも、作品を喜んでくれるという意味で、私は知らない間に民謡を一つ書いちゃったなと、そういう感覚なんです。
早坂:いいお話ですね。「祝婚歌」は結婚式場とか、いろんなところからパンフレットに使いたいとか、随分、言って来るでしょう。ただ、版権や著作権がどうなっているのか、そういうときは何とお答えになるんですか。
吉野:そのときに民謡の説を持ち出すわけです。民謡というのは、著作権料がいりませんよ。作者が不明ですからね。こうやって聞いてくださる方は、非常に良心的に聞いてくださるわけですね。だから、そういう著作権料というのは心配はまったく要りませんから・・・
早坂:どうぞ自由にお使いください。
吉野:そういうふうに答えることにしています。

吉野弘さんは、「自分が書いたものは作者不明の民謡のようなものだから、みなさんがいいと思うなら自由に歌って伝えていってください」と言って、すばらしい詩をわたしたちが広く伝えてゆくことをあの手この手で難しくしてしまう著作権という巨大ナマコを放棄したということです。
当然彼の作品がすべてそうというわけではないのでその点については注意しなくてはいけませんが、この結婚を祝う気持ちをうたった歌については、そういう難しい話しナシでどんどん「知って」「感じて」「使って」いってほしい、そういう気持ちでいらっしゃるのだと対談を読んで思いました。
これが、もの作りをする人の、どんな人にもある、いちばんの根っこにあるきれいな気持ちなのではないかと、清々しい感動がありました。
もしこの詩が、巨大ナマコの呪縛から解き放たれず海の底に沈んだままでいたならば、わたしはこれを知ることすらなかったかもしれないという可能性も充分にあるわけで、それはやはり、その代償として小さいとはいえないと思うのです。
いいものは、いい。
いいものは、残ります。
やはり、ミッキーマウス保護法をはじめとしたビジネスマンたちが繰り広げる財産権関連のどたばた劇にくっついて離れないナマコは、もう、大きくなりすぎている。生きているかどうかも、分からないよ。