人と人のプロトコル

コミュニケーションの約束事

このあいだ、瀬戸内海でのチヌ釣りのために週末帰省したとき、実家で見つけた1枚の紙きれ。

わたしが小学生だったある日、母はこれを書いて、姉弟それぞれに見えるところでも見えないところでもいいから部屋のどこかに貼っておくように言いました。
オリジナルはもうおそらくこの1枚しか残っていないのではと思い、大切に京都に持って帰ってきたのですが、ご覧の通り猫のようなものが踏んだような跡のようなものがシワのようになっています(苦笑)。嗚呼。。
何をもとにして母はこのリストを作成し、清書し、何を思ってそれぞれに配ったのか、久々にこれを読んで疑問に思い訊ねてみると、本人もよく覚えていないとのことで(笑)、結局なぜ最後はエマーソンでしめてあるのかは永遠の謎となったわけですが。
RSSで読んでくれている人もいると思うので、そのままテキストにもしておきます。

  • 外面を飾るのは服装 内面を飾るのは言葉である
  • 人の話しは一生懸命聞く事
  • 聞き上手は会話の基本である(話し上手は聞き上手の事)
  • ほほえみながら話す事
  • 相手の眼をもう少しだけ長く見る事
  • 話しを奪ってはいけない
  • 会話はキャッチボールである
  • 自分の趣味でリードしてはいけない
  • 努めて人の美点・長所を見る事
  • 親切で思いやりの心を持つ事
  • 誠実に話すとは、相手への思いやりを表す事である
  • 話しには事前の準備が必要である
  • 話しのきっかけは、自分から作る事
  • 明るく溌剌と快活で感じのよい人となる事
  • 貰う一方でなく与える事も知らねばならない

エマーソン(米国の詩人)の言葉
”人はただ半分だけ自分である
あと半分は其の表現にある”

さて、なぜいきなりこんなもの引っ張りだしてきたかというと、最近人付き合いに悩んでいて、、、ではなく、これと再会したときに考えていたこととちょうどリンクした部分があったからなのですが、考えていたことというのが、ネット上での「自分」の表し方、人との接し方でした。(10月29日の「プロフィール等掲載について」というエントリのコメントでのgintacatさんとのやりとりでも少しふれています。)
「ネット世界での自分」と「リアル世界での自分」のバランス感覚を小学生の頃から身につけている人もいれば、大学生になっても両者のバランスがうまくとれずにもどかしい思いをしている人もいます。身についているバランス感覚がちょっと偏っていることに途中で気付いて修正していく人もいるし、偏ったままの人もいます。
小中学生、あるいは高校生の、ネットを介したあまりに不幸な事件が大きな社会問題となっているいま、日本でもいよいよ法が介入するというところまできているようですが、2000年〜2002年あたり(ちょうどこの頃インターネットやウェブのものすごい脱皮がはじめるわけですが)に小中高生だった年齢層の人たちは、後にも先にも、かなり特殊なかたちでインターネットの世界にデビューした希有なユーザ層になるのではないかと思います。即ちこの授業を受けているみなさんもそうですね。
何が起こっているのかよくわからないけど、コンピュータをインターネットにつなげれば図書館にいくよりもずっとすごいスピードですごい量のことを「知る」ことができるようになった!これからのIT化社会に乗り遅れるな!でも有害な情報や見えない危険が多く潜んでいるみたいなので実名や個人情報を出すなんて危ないことはせず、自分の身は自分で守るように!
こんなかたちで、ルールも前置きもなく「ともかく使ってみる」を繰り返して慣れてきているような感じがします。
わたしは2000年にはすでに大学生をしていましたが、中学でも高校でもコンピュータやインターネットが大好きな先生(その専門領域とは関係なく、わりと個人的に)がいらっしゃったおかげで中学高校の授業でインターネットを活用することはしばしばありました。しかしやはり、インターネットで何ができるのか、どこがすごいのか、そもそもどうしてインターネットを使うのかをほとんどちゃんと知ることもないまま「なんかすごいらしいよ」という感覚で使っていた記憶があります。インターネットの世界にいながら能動的でないという、とっても矛盾した状態。
それでもわたしたちの世代はまだ「ウェブ進化論」でいうところの「高速道路」はまだ工事中で完成しきってはいなかったので、「ネットでの自分」の認識や立ち居振る舞いについてゆっくりといろんな経験の中で考え進めてゆくことができたのですが、ちょうど先に書いたような年齢層の人たちは、よくわかんないまま高速道路にのせられて、怖いからゆっくり走りたいけど他の車のスピードが速すぎるからゆっくりも走っていられないような、そんな状況だったのではないかと思います。
それは、高速道路にのせられた「こども」たちにとってすごく楽しいこともたくさん起こしたと思いますが、ネットの特性に正しい認識を持たないまま100km出せるようになってしまった人の中にはネットでの匿名性を何か絶対の盾のように捉えて安易に無責任な言動に走ってしまったり、非常に閉じられたコミュニティの中で自分の世界を完結させてしまい外の世界のものや人との交わりにきわめて消極的だったりする人をよく見かけるようになった気がします。さらには、そういう「自分」の表し方や他者との交わり方などネットで育まれたコミュニケーションの姿勢が「リアル世界の自分」にも大きく影響している例を目の当たりにすることも。
実家で久々に見つけたあの紙きれには、「自分」が社会の中で「自分」としてよりよくあるための基本的な約束事が書かれています。人と人との間のプロトコルとでも例えましょうか。人と社会との関わりのなかで「自分」はどうあるのかということを曖昧にしていてはなかなか上手にコミュニケーションがとれませんし、「知る」ということにおいても不利にはたらくことが多いでしょう。
ネットでの発言や人とのつながりが人間を育てているなぁと最近よく思いますが、たとえネットであっても、コミュニケーションの基本はこの人と人のプロトコルなのではないでしょうか。いいや、ネットでのコミュニケーションの宿命である(「0」と「1」の配列がアスキーコードに置き換えられ、OSがフォントファイルと照合して映像装置に描画命令を出して表示された*1)冷たい文字でのコミュニケーションにおいては、ほほえむこともできなければ相手の眼をみることもできないので、その約束事はよけいに大切になってくるはずです。
今後「こども」がどのようにインターネットにふれながら大人になってゆくのか、そこに法やシステムやまわりの大人たちはどう関わってゆけばよいのか興味がありますし、わたしも考えてゆかなければと思っています。まだ運転そのものに慣れていないのにいきなり高速道路にのせられて見よう見まねでなんとか走ってきた、いまもう大人になりつつある年齢層の人たちにも、自分のことも振り返りつつぜひ考えてもらえたらと思います。
ネットでの、人と人のプロトコル。コミュニケーションの約束事。

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これ、昨日の夜中に書きはじめて、掲載まですごく時間がかかってしまいました。書くスピード、インプット→アウトプットのスピードが早くつけばいいなぁと思います汗。
最後に、少し前の記事ですが、gintacatさんのブログからいくつかご紹介。

「ネット世界での自分」のありかたを考えるのにとてもいい勉強になると思います。

*1:ある人の言葉を借りました^^